2010年7月30日金曜日

スペシャリスト と 研究

 「音楽大学を卒業した人ならば、音楽のスペシャリスト(音楽家)に違いない!」と信じる方は多いため、「そんな事は、ほとんどどないよ」と答えて も、みなさん納得されません。ですが少し視点を変えて、例えば「大学の経済学部を卒業した人の全員が経済のスペシャリストですか?」と聞けば、「そんな事 はないです」とみなさん答えますし、「生物学部を卒業した人の全員が生物学のスペシャリストなわけではありませんよね」と言うと皆さん納得されます。そう いったやり取りの後だと「音楽大学を卒業した人の全員が音楽のスペシャリストであるわけはない」という事に大半の人が納得されます。


「知 識」に限って言えば、大学の、特に学士課程で学ぶことができる事というのは、たかが知れていて、専門性から言えば、はっきりいってどの専攻にもそんなに違 いはありません。音楽専攻の人は、経済専攻の人よりも音楽をちょっぴり良く知っている、経済専攻の人は音楽専攻の人より経済のことをちょこっと良く知って いる、といったレベルぐらいが現実です。


「専門性」という観点で見れば、大学が真価を発揮するのは大学院からです。 大学院では、それまでの「学習」は終わり、「研究」が始まります。もちろん、「研究」は大学院でなければできない、ということではありませんが、ある分野 のスペシャリストになるには、この「研究」というのが必須になってきます。


  スペシャリストや「ある道の専門家」とみなされる人たちは、意識的・無意識的にかかわらず、必ず専門分野に関する研究を行っています。そして、この「研 究」の有無そして、「研究を行う能力」の有無というのが専門家と非専門家をはっきりと分ける、と私は思います。これは音楽でも同じですが、「研究」は単に 「楽器の練習をする」とか「曲を書く」という事とは全く別な次元の行為になります。みなさんも、次回「音楽家」に出会ったら、彼らの「研究」のことを聞い てみると良いでしょう。素晴らしい音楽家であればあるほど、素晴らしい「研究」の成果を垣間見ることができると思います。

2010年7月28日水曜日

ハイドン、モーツァルト、ベートーベン in Lesson

 みなさんはハイドン、モーツァルト、ベートーベンの中ではどの作曲家が好きですか?私にとってこの質問は、ハイドンかモーツァルトでどっちの作曲 家の作品 が好きか?というものになります(ベートーベンは別格なので横によける)。私はハイドンが好きですが、この質問(ハイドンかモーツァルト)を音楽家の人に すると、大体「モーツァルト」、という答えが返ってきます(笑)。




さて、ハイドン、モー ツァルト、ベートーベン。この3人は西洋音楽史で言う古典派の最重要の作曲家で、日本では「ウィーン古典派」とも呼ばれます。バロック期のバッハとヘンデ ルの楽曲とともに、ウィーン古典派の楽曲は西洋音楽の根幹をなしています。なお、英語でウィーン古典派は「The First Viennese School」と言い、直訳すれば「第一ウィーン派」となります。Schoolは「学校」のではなく「流派」の意です。


さ て、私は、ウィーン古典派の作曲家の中では、ハイドンの楽曲が一番バランスが取れていて親しみやすく、作曲をでも学ぼうかな?と思っている人にとっては良 い教材だと思っています。というわけで私のプライベートレッスンでは、和声の基礎がわかってきた人に実際に楽曲中で生かす方法を教える際には、大体ハイド ンの弦楽四重奏等を例に使っています。
ベートーベンの楽曲は、色々な面でハイドンより複雑であり、その意味では初心者の勉強にはあまり適し ていません。ですが、中級レベルで「少し長い楽曲でも書いてみよう!」と意気込む生徒さんに楽曲形式やアイデアの発展の仕方などを教えるには、ベートーベ ンの楽曲はぴったりの教材です。
一方、残念ながら私はモーツァルトの楽曲を作曲のレッスンで教材として使ったことがありませんが、彼の交響 曲やオペラは指揮のレッスンをするにはとてもよい教材になります。実際に、モーツァルトの作品が、ウィーン古典派の指揮者が必要な作品中では一番演奏頻度 が高いので、その点でもモーツァルトの勉強をするのは重要です。




ウィーン古典派の楽曲は、実際に演奏される楽曲としての価値だけでなく、このようにレッスン中にも役に立ってもらっているありがたい存在なのですが、作曲者がずーっと昔に亡くなっているために、楽譜や録音が安いか無料だ、というのも助かります。

2010年7月25日日曜日

ソングライターとしてのブラームス

  ブラームスは、19世紀ロマン派の保守的な作曲家の代表として知られて います。ブラームスの楽曲は、均整が取れていてよく構成されており、これらの点において古典派からの正統な伝統を受け継いでいるといってよいでしょう。し かし、これらの点は、ワーグナー等の作品と比べると、「自由さがない」「色彩感がない」「ロマンティックではない」という評価にもつながっています。
  私は、ブラームスの楽曲を交響曲や室内楽から知っていったのですが、どちらかといえば「パッとしない」楽曲だと感じていて、頭の中でブラームスを「2級」の作曲家の枠に入れていました。

   私の中で、その評価が変わったのは、ブラームスの歌曲を知りだしてからです。ピアノ曲の中にも、とても美しいものがありますが、ブラームスの歌曲は、ロ マン派時代に作られたどの作品にも匹敵するだけの「ロマンティックさ」をもったものが多いのです。彼の歌曲を知るにつれ、私はブラームスが、なぜもっと器 楽曲や大規模な曲に、歌曲の中にあるようなロマンティックさを入れなかったのか?と疑問に思うようになりました。もし、ブラームスが交響詩を書いていた ら、このジャンルの傑作を書いたことに間違いはないと思います。そして、その作品は、「神話」や「歴史」などを巻き込んだ大きなものではなく、とても個人 的で内から湧き出るような美しい作品になったのではないでしょうか。ブラームスの作品を聞くたびに、残念でなりません。









2010年7月22日木曜日

男性であること 歌を教えるということ 昔の記録があるということ

   男性である、ということは歌が好きな人にとって、不利な点がいくつかあるのですが、その中の一つが「変声がある」ということです。変声をすると、新しい声 (楽器)の使い方を一から覚え直さなければいけません。声を、年齢とともに素直に伸ばすことができない、というわけです。変声中に音楽や歌から離れてしま う男の子や、運動部で声をつぶす男の子もいます。女性はこの点において余り心配ありません。

  さて、男性にとって不利な「変声」ですが、歌を教える、ということを始めると、とても有利になってきます。というのも、男性は男性のレンジで歌う事がで き、女性の(子供のときの)レンジでも歌った経験があるからです。 女性は男性のレンジで歌うことは基本的には一生なく、また変声も経験しないため、女性が男性を指導すると、意外と苦労する、ということが多くあります。

   当たり前のことですが、男性がこの利点を生かすには、変声前にどのような感覚で、どのように歌っていたかを覚えていなくてはいけません。幸運なことに、私 はどれくらいで声を転換させていたか?など結構はっきりと覚えていて、これらのことは、子供や女性に教えるときにとても役に立っています。

   さて、自分の記憶とは別に、変声前と変声後の練習や演奏を録音したテープも残っていて、それらは自分の記憶や感覚を呼び起こすのに役立っています。自分 がファルセットやビブラートなどを身に着けていった過程が分かる良い記録なのですが、ボーイソプラノだった頃のものは良いとしても、中高生の時のものを聞 くと、ハリセンで当時の自分をすっぱたきたい気分になります(笑)。
   最近、久しぶりに井上雄彦・作、漫画「SLAM DUNK」を読み返す機会があったのですが、その中に、バスケットボール初心者・桜木花道が、「シュート2万本」の特訓をする際、自分のシュートの録画を 見ながら色々と思いをめぐらす、という場面があります。自分の昔の録音を聞くのは、あんな感じです(笑)。